2007年10月16日
ペーパークリップ作戦の真実
ペーパークリップ作戦で渡米したドイツ人科学者達。最前列右から7番目のポケットに手を入れている人物がフォン・ブラウン博士。フォート・ブリスにて。ペーパークリップ作戦(英:Operation Paperclip)は、第二次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍がドイツの科学者をナチス・ドイツからアメリカに連行した一連の作戦のコード名である。ペーパークリップ計画 (Project Paperclip) とも呼ばれる。1945年に設立された統合諜報対象局 (Joint Intelligence Objectives Agency) にこの作戦に関する直接的な責任が与えられた
オーゼンベルク・リスト
ドイツ軍需産業界は長期戦に対する準備ができていなかったために独ソ戦の長期化とアメリカの参戦が続き、戦略上不利な立場に立たされた。そこで、ドイツは兵器の研究開発に活かすことができる技術を持つ科学者と技術者を前線部隊から呼び戻す取り組みを1943年春から開始した。それ以前は科学者や技術者の徴兵猶予の制度は存在しなかった。
博士号を持つ兵士は一晩中の歩哨任務から解放され、科学分野の修士号を持つ兵士は前線勤務から呼び戻され、数学者は炊事部隊から母国に呼び戻され、そして、精密機械のオペレータは軍用トラックの運転手であることをやめた。
??ディーター・K・フツェル
科学者と技術者を前線から呼び戻すためには、最初にその人材を特定し、特に彼らの忠誠心を推し量るために更に追跡調査を必要とした。その調査結果は国防研究団体(独:Wehrforschungsgemeinschaft)代表のハノーファー大学の工学者ヴェルナー・オーゼンベルク (Werner Osenberg) によってまとめられた。これがオーゼンベルク・リストである。1945年3月に、ポーランド人検査技師はきちんと流されていないトイレで細かく破られたオーゼンベルク・リストの切れ端を見つけた[4]。アメリカ軍の兵器開発部局である陸軍補給処とジェットエンジン研究部門のロンドン支部の責任者であったロバート・B・ステイバー少佐は、尋問すべきドイツ人科学者のリスト(ブラック・リスト)をまとめるためにオーゼンベルク・リストを用いた。「ブラック・リスト」はコード名であり、そのリストの筆頭には、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンの名前があった。
オーバーキャスト作戦
ロケット工学者のみを尋問しようとする当初の計画は、1945年5月22日にステイバー少佐が国防総省に緊急の外電を送った後[4]、「太平洋戦争遂行のために重要」としてドイツ人技術者とその家族を米国に避難させるように変わった[4]。また、そのとき同様に強く求められていたのは、ソビエト連邦にドイツ人技術者の持つノウハウを与えないことであった[6]。アルソス作戦では、ドイツの原子爆弾計画の責任者であったヴェルナー・ハイゼンベルクは、「彼は、我々にとってドイツ軍10個師団より価値がある。」とさえ言われた。
ロケット工学と原子核物理学を専門とする科学者に加え、様々な連合軍のチームがドイツ人の化学、医療及び海軍兵器の専門家も捜索していた。アメリカ海軍はオーバーキャスト作戦に先駆けて1945年5月にヘルベルト・A・ヴァークナー (Herbert A. Wagner) 博士を獲得していた。ヴァークナー博士はまず最初にロングアイランドNYマンションで、それから、1947年に海軍航空ステーション・ポイント・ムグ (Naval Air Station Point Mugu) で雇われた。
大部分の科学者はV2ロケットと関係しており、ロケット技術者グループは最初にドイツ・バイエルン州ランツフートの住宅団地に彼らの家族とともに収容された。オーバーキャスト作戦という作戦名は1945年7月19日にアメリカ統合参謀本部によって命名されたが、ランツフートの住宅の通称に「キャンプ・オーバーキャスト」が公然と使われていたため、コード名はペーパークリップ作戦に変更された。1958年までに、ペーパークリップ作戦の多くの側面が一般に知るところとなった。同作戦については、フォン・ブラウンに関するタイム誌記事でも公然と言及されてい]。
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